連歌について

 今日はお酒は飲んでません。月末で金もなくなり、安物の酒を飲んで(「都ほまれ」といふもの)、味はそんなに悪くはなかつたのだが、あとの酔ひがよくなかつた。それゆゑ、今日はさほど飲みたい気分ではないのである。

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 連歌について書くと予告したのだから、一応それだけ書いてしまつてから、いつたん閉ぢやうと思ふ。

 現代日本に於いて連歌はいつたいどのくらゐおこなはれてるものなのだらう。不見識にしてそれはほとんど知らない。丸谷才一大岡信岡野弘彦などの試みは、あるね。歌人寄りの人が多いといふ印象があるが、とはいへ俳諧味すなはち蕉門連句も意識してゐるやうだ。そもそもの発端には、俳人にしてすぐれた芭蕉研究を物した安東次男が指南役で登場してることもあつた。この現代連歌は1970年代後半から行はれてたわけだから、すでに30年以上は開催されてるはずだが、残念ながらひろく江湖に受け入れられて全国各地で物好きたちによつて連歌の催しが行はれる……といふ態にまでは熟すことつひにかなはなかつた。

 手もとに、新潮日本古典集成の『連歌集』がある。しかし、私にはまだこれを未読することかなはぬ。古井由吉さんも最近『新潮』に於ける大江健三郎との対談で、長年連歌を読んできたものの、その心意気が生々しく伝はつてくることの難しきことを述べておられる。

 連歌には専門的な「決まり事」がたくさん存在する。しかしそれは連歌の難しさの本質的な理由ではない。そんな「決まり事」は一週間もあれば覚えることのできるものだ。連歌の理解し難さとは、「座」というものを想像することの難しさにかかはるものではないか。当然のやうに、連歌は「座」がなくてはなりたたない。私たちは、その「座」といふ当時にあつた生活・教養基盤に寄り添ひ、その上でその発想の妙味を楽しまなければならぬのだから、その「座」からとほく離れた現代日本人にとつて理解の難しいのは致し方ない話である。さきに挙げた丸谷才一の連歌の試みは、まさに現代日本に「座」を幻出するところにあつた。丸谷は、折口信夫山本健吉の流れをひいてゐるひとであり、すなはち「文学に於ける社交性」を探究したひとであつた。だから、彼の膨大な座談はもとより「連歌」への執着も、そんなところにあつたのだらうし、彼が定家よりも後鳥羽院を評価することにしても、さうした「社交の文学」といふ観点からであつた。だが、私はさうした社交としての連歌に心魅かれることすくない(といふよりも、さうした彼の方向性が「文壇」といふ「社交界」の大御所としてどしんと構へることも正当化してしまつたやうで、それが残念でならない)。……もちろん、「座」を幻出することの難しさは言ふまでもない。すぐれた連歌入門書『連歌概論』を書いた山田孝雄もまた、「本当に連歌に熟達するには二十年位稽古しなければ出来ない」と書いてゐた。

 ……この山田孝雄の書物に出会えたのは、石川淳『文学大概』のおかげであつた。といふよりも、連歌に興味を抱いたのも石川の文章によつてであった。

 

連歌の方式を知るためには、山田孝雄「連歌概説」を読むがよい。芭蕉詩の妙趣をうかがふためには、幸田露伴翁「猿蓑抄」「冬の日抄」其他に就くがよい。しかる後に、前段に注意しておいたとほり、芭蕉興行に係る俳諧の連歌の全巻をことどとく反復暗唱し、潜心講究し、日夜弛みなく、みづから玩味、みづから発明しなければならぬ。山田氏の教によると、連歌の正道に通ずるには二十年を要するといふ。俳諧の奇妙を兼ねるにはさらに二十年を要するであらう。芭蕉が五十一年の精根を傾けて、これに倒れたのも無理ではなかつた。しかし、墻の外にたたずんで風韻を洩れ聞く程度ならば、五年でどうやら間に合ふかも知れぬ。せめてこの五年間を費やすことさへできぬ貧乏性の人間には、とても上等なる日本文学を語る資格はない。

俳諧初心」(『文学大概』録)

 せめて五年間を連歌に費やさなくては、上等な日本文学を語る資格はない。とんだ断言である。だが、この断言の裏には、石川自身の五年以上の講究の存在をうかがふべきである。じつは、私が書きたかつた「連歌」の話はここにあつた。まはりくどくなつて、ごめんなさい。

 「精神の運動」といふほとんど奥義にも似た「散文」の美学をたびたび語り、それを実践した石川は、アランとかヴァレリーあるひはジッドといつた西洋人たちの美学からのみならず、日本の「詩」のふとい伝統、それも連歌のこころからその「散文」の理論を形づくつたのではないかといふのが私のいま抱ひてゐる仮説である。これは仮説だから、この仮説が石川を読むのに有害なものになつたときにはすぐさまこれを放擲してもよい。だが、この仮説は、とつかかりとしては少しは有益なものになるかもしれない。

 石川と「連歌」の関係を探るのには、彼の文学的出発点にも言へる「佳人」の次の一節を思い浮かべるのがよい。

そのときふとわたしの唇にのぼつたことば──はじめ何といふのか覚らなかつたのであるが、それと気づくやいなやわたしは針で刺されたような衝撃を感じ、どんな力を振り絞つたのかいきなり立ち上がつて物狂ほしく地だんだを踏み出した。そのことばはわれにもあらず娑婆くさい恰好をつけて句の形をなしてゐた。あれほどまで禁じてゐた詠嘆、まつたく封じこめてゐた溜息がいつか唇から洩れるほどわたしのうちに裏切つてゐた。まさしく堕落にほかならなかつたその文句を、爾来回想するごとに赤面する恥辱を忍んで、わたしはここに記さなければならない。

 歩く一夜芙蓉の花に白みけり

何といはう、わたしはただくち惜しかつた。この反逆、この軽薄。わたしの声明を隙間もなく打ちこんでゐたはずのこの一夜をつひ鼻の先に節をつけて唄ひ散らしてしまおうとは。今こそ精根が尽きはてて、またばつたり倒れた。わたしは愚婦のやうにただ茫然としてゐた……気がつくと空がだいぶ明るくなつてゐた。

「佳人」

 石川は、「句」のもつ「詠嘆」にするどい嫌悪感を示してゐる。すぐさまには理解できない嫌悪感である。だが、この「詠嘆」への否定にこそ、石川文学の本質があると考へる。すなはち、「詠嘆」という自己完結性への否定。それはまた、若い頃に心酔したといふアナトール・フランス芥川龍之介から離脱する方法でもあつただらう。短編のなかに大理石のような無時間的な美を彫琢する文学手法からの離脱の方法ではなかつたのか。この「無時間的な美」になぜ嫌悪感を抱いたのかは私にはまだわからない。しかしながら、石川はたしかにそこから離脱して、文学に「時間」といふ観念を導入しやうとしたのであつた。たとへば、次の文章。

文学史的に見れば、ヴァレリイに来て、象徴派の図式は破られた。象徴派の考へ方は、時間を分離したところで、図形を複雑化させるのに役立つた。そんな複雑化から、ヴァレリイはきれいに洗はれてゐる。だが、それを図形に展開できないといふことでは、ヴァレリイの世界は象徴派のそれのやうに平易ではない。仮定が簡単であるだけ、発明はおくゆかしくなつてゐる。

「ヴァレリイ」(『文学大概』録)

 これはヴァレリー論ではある。しかし、連歌の「句」のもつ詠嘆を次から次へと否定してく運動には、「時間」はぜつたいに必要になるものである。これは、むしろヴァレリーに仮託して「連歌」論を展開してゐるのだと言へなくもないだらう。

 石川の「散文」の美学には、「詩」がかくれてゐる。有名作では、「マルスの歌」における「歌」や、「紫苑物語」における「和歌」にも「詩」はあらはれてゐるね。「普賢」の主人公が中世フランスの詩人クリスティヌ・ド・ピザンの伝記を書かうとした人物であつたことや、「山桜」の主人公がネルヴァルのマントに誘われてるさまを思ひ浮かべるひともあるかもしれぬ。そうした彼の文学に占める「詩」の位置も、その方面からうまく整理ができるものではないかとひそかに思つてゐる。たとへば、「紫苑物語」における宗頼が父にむかつて朱筆を投げるシーン。石川は「詩的回想断片」に於いて、幼少期に、下手くそな「桂園派」の先生に短歌を叩き込まれて不快だったと述べてゐる。「紫苑物語」における父子のこの対立は、藤原清輔の父との対立から採つてゐるものだと思つてゐたが、石川自身のエピソードでもあつたのかもしれないね。

 話が少し逸れてしまつた。話をもう一度戻すと、「連歌」が散文に援用されるといふ次第は、石川の専売特許とはいへない。

 たとへば、『徒然草』のいつけん奔放な書きぶりには、連歌的発想があるのではないか。久保田淳氏は『徒然草』のなかでも、古来より注釈者たちを悩ましてきたという難解な第一三七段について次のように言つたことがあつた。

これは、当初からこのように構想されていた文の運びではあるまい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一文が、「雨にむかひて月をこひ……」という文を呼び出し、それが「咲きぬべきほどの梢……」の文を誘いという具合に、次々に文を喚起していったのであろう。「さまざまな情趣のあり方を書き立て、その見方・味わい方を述べて来た中に潜在していた、兼好の無常思想が、賀茂祭の見物人のありさまを叙することに触発されて現われ来ったもの」という、安良岡康作氏の指摘は正しい。これなど、書きながら考えてゆく、書くことが考えることを意味している好物だと思うのである。とすると、このような段においては、主題として要約するよりも、連歌の付合いにも似た文の展開を辿ること、兼好の考えに沿って考えることこそが必要なのではないだろうか。

「『徒然草』の文体」(『中世文学の世界』録)

 「連歌的発想」とは、由緒正しいエセーの骨法でもあつたのではなかろうか。奇しくも──とは言つても、もはや私たちにとつて理解しやすいものだと思ふが──、石川はこんなことを書いてもゐた。

以上、われわれは文章を殺すものについて一瞥して来た。文章を生かすものについては、モンテエニュの簡単なことばを記すにとどめる。「一つ調子に繋がれ抑へつけられてゐることは、存在することではあつても生きることではない。もつともうつくしいたましひはもつとも変化と柔軟とに富めるものだ」(エセエ三・二)

「文章の形式と内容」(『文学大概』録)

 石川が良き「文章」の具合を説明するのに、小説家の言葉ではなく、エセーの大家の言葉を引いてゐるのは偶然ではなからう。石川は、連歌の風韻、ひいてはエセーの骨法をもつて「小説」を刷新しやうとしたのであると私は考へている。

 石川が蜀山人など天明狂歌への心酔を表明したことはつとに知られてゐるし、またある所では「私小説」が「俳諧」と地続きであるとある所で述べている。論じられることはまだたくさんある(狂歌の糸を引いてゐるのが連歌であることは言を俟たぬ事柄だろう)。さて、その天明狂歌の源泉を石川は『古今集』の誹諧ではなく、『新古今集』に見ている。石川の年下の友人、三島由紀夫の『新古今集』への耽溺、川端康成の文体と『新古今集』の類似……なんて考へていけば、近代文学における『新古今集』の影響へと話を拡げることもできさうだ。『雪国』に連歌的手法があることを指摘してゐる論文もあつたと思ふが、読んだことはない。だが、『雪国』のラストシーンの「天の河」の描写は美しいね。あれは芭蕉の有名な「荒波や佐渡に横たふ天の河」からやつてきてゐる。

ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がつてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒波の上に見たのは、このやうなあざやかな天の河の大きさであつたか。

『雪国』

 おもはず少しだけ論文調になつてしまつたから、最後に少し転調を施して今回は終はりといふことにします。それではまたね。