文章をオブジェとして見ること

 文章のことを考えてゐる余裕は、今は本来あつてはならないのだが、どうしても書きとめておきたいからここに書いておく。

 半年ほど前に小説を一篇書いて、とあるサイトに投稿した。自分で言ふのもよろしくないが、それは絶賛された。筆力の高さを賞賛してくれた人も二人三人ごときではなかつた。しかし、さきほど久しぶりに読み返してみたら、拙いと思われる文章が次から次へと発見されるではないか。文章の流れが、わるいのだ。それから、文章が決定的なまでに美しくない。不必要な接続詞、代名詞、副詞、形容詞が散見される。

 なんとも不愉快で、居心地の悪い気分だつた。

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 文章をオブジェと見立てて彫琢すること。

 上田秋成のやうな「完璧な作品」をひとつ書き上げてみたいものだ。

 

 

 

出羽桜つや姫

 「出羽桜 純米吟醸 つや姫」は一口飲んだ時は、なんだこの酒、甘すぎて飲めないと思つたが、二日目もう一度飲んでみた時には、ふむ悪くないとなり、三日目につひに四合瓶を飲み終はつた時には、いつの間にやら新しい「つや姫」の四合瓶が私の隣にあつた。美味しいお酒である。

 そもそもこの酒に関心を抱いたのは、普通に炊いて食べる米としての「つや姫」を好んだからである。「つや姫」は酒にしても美味い、といふのが私の感想である。

 味としては、「八仙 特別純米生原酒」いわゆる「赤ラベル」といふのが今私の隣にあるが、これに風味は似てゐるところがあるかもしれない。こちらのはうがより酸味があつて全体的には好ましいかもしれないが、米の直接的に豊かな香りがたちのぼるのは「つや姫」ではなからうか。

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昨日は所用がありて四ツ谷に行く。有名な角打のお店に初めて入る。牛筋をアテにして「久保田」と「姿 純米吟醸生酒」をいただく。隣の酒屋で「黒牛」を購ひ、帰つた。

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「熟成 蔵守(2009年醸造純米)」を購ふ。古酒を飲むのは初めて。うーむ、あんまり好みぢやない。

連歌について

 今日はお酒は飲んでません。月末で金もなくなり、安物の酒を飲んで(「都ほまれ」といふもの)、味はそんなに悪くはなかつたのだが、あとの酔ひがよくなかつた。それゆゑ、今日はさほど飲みたい気分ではないのである。

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 連歌について書くと予告したのだから、一応それだけ書いてしまつてから、いつたん閉ぢやうと思ふ。

 現代日本に於いて連歌はいつたいどのくらゐおこなはれてるものなのだらう。不見識にしてそれはほとんど知らない。丸谷才一大岡信岡野弘彦などの試みは、あるね。歌人寄りの人が多いといふ印象があるが、とはいへ俳諧味すなはち蕉門連句も意識してゐるやうだ。そもそもの発端には、俳人にしてすぐれた芭蕉研究を物した安東次男が指南役で登場してることもあつた。この現代連歌は1970年代後半から行はれてたわけだから、すでに30年以上は開催されてるはずだが、残念ながらひろく江湖に受け入れられて全国各地で物好きたちによつて連歌の催しが行はれる……といふ態にまでは熟すことつひにかなはなかつた。

 手もとに、新潮日本古典集成の『連歌集』がある。しかし、私にはまだこれを未読することかなはぬ。古井由吉さんも最近『新潮』に於ける大江健三郎との対談で、長年連歌を読んできたものの、その心意気が生々しく伝はつてくることの難しきことを述べておられる。

 連歌には専門的な「決まり事」がたくさん存在する。しかしそれは連歌の難しさの本質的な理由ではない。そんな「決まり事」は一週間もあれば覚えることのできるものだ。連歌の理解し難さとは、「座」というものを想像することの難しさにかかはるものではないか。当然のやうに、連歌は「座」がなくてはなりたたない。私たちは、その「座」といふ当時にあつた生活・教養基盤に寄り添ひ、その上でその発想の妙味を楽しまなければならぬのだから、その「座」からとほく離れた現代日本人にとつて理解の難しいのは致し方ない話である。さきに挙げた丸谷才一の連歌の試みは、まさに現代日本に「座」を幻出するところにあつた。丸谷は、折口信夫山本健吉の流れをひいてゐるひとであり、すなはち「文学に於ける社交性」を探究したひとであつた。だから、彼の膨大な座談はもとより「連歌」への執着も、そんなところにあつたのだらうし、彼が定家よりも後鳥羽院を評価することにしても、さうした「社交の文学」といふ観点からであつた。だが、私はさうした社交としての連歌に心魅かれることすくない(といふよりも、さうした彼の方向性が「文壇」といふ「社交界」の大御所としてどしんと構へることも正当化してしまつたやうで、それが残念でならない)。……もちろん、「座」を幻出することの難しさは言ふまでもない。すぐれた連歌入門書『連歌概論』を書いた山田孝雄もまた、「本当に連歌に熟達するには二十年位稽古しなければ出来ない」と書いてゐた。

 ……この山田孝雄の書物に出会えたのは、石川淳『文学大概』のおかげであつた。といふよりも、連歌に興味を抱いたのも石川の文章によつてであった。

 

連歌の方式を知るためには、山田孝雄「連歌概説」を読むがよい。芭蕉詩の妙趣をうかがふためには、幸田露伴翁「猿蓑抄」「冬の日抄」其他に就くがよい。しかる後に、前段に注意しておいたとほり、芭蕉興行に係る俳諧の連歌の全巻をことどとく反復暗唱し、潜心講究し、日夜弛みなく、みづから玩味、みづから発明しなければならぬ。山田氏の教によると、連歌の正道に通ずるには二十年を要するといふ。俳諧の奇妙を兼ねるにはさらに二十年を要するであらう。芭蕉が五十一年の精根を傾けて、これに倒れたのも無理ではなかつた。しかし、墻の外にたたずんで風韻を洩れ聞く程度ならば、五年でどうやら間に合ふかも知れぬ。せめてこの五年間を費やすことさへできぬ貧乏性の人間には、とても上等なる日本文学を語る資格はない。

俳諧初心」(『文学大概』録)

 せめて五年間を連歌に費やさなくては、上等な日本文学を語る資格はない。とんだ断言である。だが、この断言の裏には、石川自身の五年以上の講究の存在をうかがふべきである。じつは、私が書きたかつた「連歌」の話はここにあつた。まはりくどくなつて、ごめんなさい。

 「精神の運動」といふほとんど奥義にも似た「散文」の美学をたびたび語り、それを実践した石川は、アランとかヴァレリーあるひはジッドといつた西洋人たちの美学からのみならず、日本の「詩」のふとい伝統、それも連歌のこころからその「散文」の理論を形づくつたのではないかといふのが私のいま抱ひてゐる仮説である。これは仮説だから、この仮説が石川を読むのに有害なものになつたときにはすぐさまこれを放擲してもよい。だが、この仮説は、とつかかりとしては少しは有益なものになるかもしれない。

 石川と「連歌」の関係を探るのには、彼の文学的出発点にも言へる「佳人」の次の一節を思い浮かべるのがよい。

そのときふとわたしの唇にのぼつたことば──はじめ何といふのか覚らなかつたのであるが、それと気づくやいなやわたしは針で刺されたような衝撃を感じ、どんな力を振り絞つたのかいきなり立ち上がつて物狂ほしく地だんだを踏み出した。そのことばはわれにもあらず娑婆くさい恰好をつけて句の形をなしてゐた。あれほどまで禁じてゐた詠嘆、まつたく封じこめてゐた溜息がいつか唇から洩れるほどわたしのうちに裏切つてゐた。まさしく堕落にほかならなかつたその文句を、爾来回想するごとに赤面する恥辱を忍んで、わたしはここに記さなければならない。

 歩く一夜芙蓉の花に白みけり

何といはう、わたしはただくち惜しかつた。この反逆、この軽薄。わたしの声明を隙間もなく打ちこんでゐたはずのこの一夜をつひ鼻の先に節をつけて唄ひ散らしてしまおうとは。今こそ精根が尽きはてて、またばつたり倒れた。わたしは愚婦のやうにただ茫然としてゐた……気がつくと空がだいぶ明るくなつてゐた。

「佳人」

 石川は、「句」のもつ「詠嘆」にするどい嫌悪感を示してゐる。すぐさまには理解できない嫌悪感である。だが、この「詠嘆」への否定にこそ、石川文学の本質があると考へる。すなはち、「詠嘆」という自己完結性への否定。それはまた、若い頃に心酔したといふアナトール・フランス芥川龍之介から離脱する方法でもあつただらう。短編のなかに大理石のような無時間的な美を彫琢する文学手法からの離脱の方法ではなかつたのか。この「無時間的な美」になぜ嫌悪感を抱いたのかは私にはまだわからない。しかしながら、石川はたしかにそこから離脱して、文学に「時間」といふ観念を導入しやうとしたのであつた。たとへば、次の文章。

文学史的に見れば、ヴァレリイに来て、象徴派の図式は破られた。象徴派の考へ方は、時間を分離したところで、図形を複雑化させるのに役立つた。そんな複雑化から、ヴァレリイはきれいに洗はれてゐる。だが、それを図形に展開できないといふことでは、ヴァレリイの世界は象徴派のそれのやうに平易ではない。仮定が簡単であるだけ、発明はおくゆかしくなつてゐる。

「ヴァレリイ」(『文学大概』録)

 これはヴァレリー論ではある。しかし、連歌の「句」のもつ詠嘆を次から次へと否定してく運動には、「時間」はぜつたいに必要になるものである。これは、むしろヴァレリーに仮託して「連歌」論を展開してゐるのだと言へなくもないだらう。

 石川の「散文」の美学には、「詩」がかくれてゐる。有名作では、「マルスの歌」における「歌」や、「紫苑物語」における「和歌」にも「詩」はあらはれてゐるね。「普賢」の主人公が中世フランスの詩人クリスティヌ・ド・ピザンの伝記を書かうとした人物であつたことや、「山桜」の主人公がネルヴァルのマントに誘われてるさまを思ひ浮かべるひともあるかもしれぬ。そうした彼の文学に占める「詩」の位置も、その方面からうまく整理ができるものではないかとひそかに思つてゐる。たとへば、「紫苑物語」における宗頼が父にむかつて朱筆を投げるシーン。石川は「詩的回想断片」に於いて、幼少期に、下手くそな「桂園派」の先生に短歌を叩き込まれて不快だったと述べてゐる。「紫苑物語」における父子のこの対立は、藤原清輔の父との対立から採つてゐるものだと思つてゐたが、石川自身のエピソードでもあつたのかもしれないね。

 話が少し逸れてしまつた。話をもう一度戻すと、「連歌」が散文に援用されるといふ次第は、石川の専売特許とはいへない。

 たとへば、『徒然草』のいつけん奔放な書きぶりには、連歌的発想があるのではないか。久保田淳氏は『徒然草』のなかでも、古来より注釈者たちを悩ましてきたという難解な第一三七段について次のように言つたことがあつた。

これは、当初からこのように構想されていた文の運びではあるまい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一文が、「雨にむかひて月をこひ……」という文を呼び出し、それが「咲きぬべきほどの梢……」の文を誘いという具合に、次々に文を喚起していったのであろう。「さまざまな情趣のあり方を書き立て、その見方・味わい方を述べて来た中に潜在していた、兼好の無常思想が、賀茂祭の見物人のありさまを叙することに触発されて現われ来ったもの」という、安良岡康作氏の指摘は正しい。これなど、書きながら考えてゆく、書くことが考えることを意味している好物だと思うのである。とすると、このような段においては、主題として要約するよりも、連歌の付合いにも似た文の展開を辿ること、兼好の考えに沿って考えることこそが必要なのではないだろうか。

「『徒然草』の文体」(『中世文学の世界』録)

 「連歌的発想」とは、由緒正しいエセーの骨法でもあつたのではなかろうか。奇しくも──とは言つても、もはや私たちにとつて理解しやすいものだと思ふが──、石川はこんなことを書いてもゐた。

以上、われわれは文章を殺すものについて一瞥して来た。文章を生かすものについては、モンテエニュの簡単なことばを記すにとどめる。「一つ調子に繋がれ抑へつけられてゐることは、存在することではあつても生きることではない。もつともうつくしいたましひはもつとも変化と柔軟とに富めるものだ」(エセエ三・二)

「文章の形式と内容」(『文学大概』録)

 石川が良き「文章」の具合を説明するのに、小説家の言葉ではなく、エセーの大家の言葉を引いてゐるのは偶然ではなからう。石川は、連歌の風韻、ひいてはエセーの骨法をもつて「小説」を刷新しやうとしたのであると私は考へている。

 石川が蜀山人など天明狂歌への心酔を表明したことはつとに知られてゐるし、またある所では「私小説」が「俳諧」と地続きであるとある所で述べている。論じられることはまだたくさんある(狂歌の糸を引いてゐるのが連歌であることは言を俟たぬ事柄だろう)。さて、その天明狂歌の源泉を石川は『古今集』の誹諧ではなく、『新古今集』に見ている。石川の年下の友人、三島由紀夫の『新古今集』への耽溺、川端康成の文体と『新古今集』の類似……なんて考へていけば、近代文学における『新古今集』の影響へと話を拡げることもできさうだ。『雪国』に連歌的手法があることを指摘してゐる論文もあつたと思ふが、読んだことはない。だが、『雪国』のラストシーンの「天の河」の描写は美しいね。あれは芭蕉の有名な「荒波や佐渡に横たふ天の河」からやつてきてゐる。

ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がつてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒波の上に見たのは、このやうなあざやかな天の河の大きさであつたか。

『雪国』

 おもはず少しだけ論文調になつてしまつたから、最後に少し転調を施して今回は終はりといふことにします。それではまたね。

 

 

 

 

桜/立つ

 めかじきを塩焼きにして、わさびをつけて食べた。「菊姫 山廃仕込み純米酒」を飲む。今日は国際法と時事論文の問題をやつた。

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私の住んでゐる近くの桜も、いよいよ満開といつたふぜいである。日本人は古来より桜を愛でてきたとはいひ条、『万葉集』に於いては桜よりは梅が多く歌はれているさうである。日本人が「桜」を発見したのはむしろ『古今集』以来の事柄に属するはずである(そもそも「日本人」なる概念が明治以降のものなのだから、この言葉遣ひ自体が怪しいものではあるけれども)。それでは、保守の人々の愛するところの桜はどこに由来するのかといへば、本居宣長の桜狂ひ……といふよりは、戦時に本居宣長の次の歌が利用されたことに端を発するのだらう。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 じつさい、この歌から神風特攻隊の「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の名称が採用されたわけである。『古事記』も『万葉集』も『源氏』もごちや混ぜのヘンテコな美学であると思ふ。
 保守陣営が桜をやたら称揚するからといつて、なにも桜それ自体を嫌ふには及ばない。一方では嫋々たる吉野の桜をもつて日本を美化し、他方では薩摩の西郷南洲を持ち出し、かと思へば吉田松陰を出してくるハチヤメチヤ振りなのだから。論理なんてありやしない。折口信夫の次の言葉を私は思ふのである。
定見家や、俗衆のためには、自己讃美あれ。当来の学徒にとつては、正しい歴史的内省がなければならぬと思ふ。
「叙景詩の発生」
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「立つ」
 ところで、桜にあはせて『古今集』と『新古今』の春歌を読んでゐて疑問に思ふ所があつた。すなはち、「立つ」という動詞の万能性である。なんでもかんでも「立つ」のである。「春」も「立つ」し、「霞」も「虹」も「立つ」。堀辰雄を俟つまでもなく、「風」もまた「立つ」わけである。これはいつたいなんだらうか。……とはいへ、かの有名なヴァレリーの「風立ちぬ…」は不思議なことにフランス語のほうでもお誂へに「Le vent se lève」となつてゐて、これは日本語の表現伝統とふしぎに相似してゐるのだよね。そんなところにヴァレリーのこの句が人口に膾炙したゆゑんのひとつもあるのかもしれない。ところでそのヴァレリーはつとに『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』でこんなことを述べてゐる。
幾何学学者なら、形態の研究のなかに時間、速度を導入することができるだろうし、同じようにして、運動の研究からそれらを遠ざけることもできるだろう。そして言語を駆使することで、突堤が延びるs'allonge、山が聳え立つs'élève、彫像が立つse dresse、などという表現が生まれるのである。類推のもたらす眩暈、連続性の論理によって、こうした動作はその傾向の極限つまり停止することの不可能性にまで至る。想像においては、一切のものが段階を追って徐々に動いている。この部屋のなかでは、私がこのような思考だけを持続させているために、さまざまな物体がランプの炎のように揺れ動いているagissent

 ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』塚本昌則訳、ちくま学芸文庫、三七-八頁(Paul Valéry , Oeuvres, tome 1, Gallimard, 1957, p. 1169-70)

 

ヴァレリーにとつて、「風立ちぬ」という表現は「一切のものが段階を追って徐々に動く」さまを捉えるための表現のうちの一つであつたのだらう。ヴァレリーはヴァレリーで西洋に於いてもまたちよつと特殊な詩法をもつてゐた人ではあるが、この例のなかで「徐々に動くさま」がだうしても擬人的になつてしまふきらひはあるかもしれない。佐藤春夫は次のように言つてゐる。

いつたい西洋の詩人は、自然を見るにも常に擬人的にしか見られないし、見ることをしない。

「東洋人の詩感」

ヴァレリーが必ずしもさうだとは言はないが、すぐに西洋人はニンフやらをだしてくるね。さきほど出た動詞たちもそもそもは人間たちに用ゐられるべきものではなかつたか。それでは、東洋人はだうだといふのか。つづけて、佐藤は言ふ。

成程花を見て無常を感ずるといふやうな哲学的な見方も、多分にあるにはあるが、われわれの批評から見てさういふのには、かへつて傑作は乏しく、自然現象のまま歌つたのになかなかいいのがあるかと思ふ。たとへば

  わだつみの豊旗雲に入日さし

  今宵の月夜あきらけくこそ

 といふなぞは、何の主観も哲学もなしに、然し立派に詩になつてゐると思ふ。支那の詩にしても王維や韋応物なぞの詩を初めとし純粋なる自然詩にその傑作が随分があると思ふ。(例は思ひつかないから、又今度にする)特別な人ばかりぢやない、どの詩人にでも相当にある。否むしろわれわれ東洋人が風流といふのは、人間そのものを自然物のやうに、自然の一断片として感ずる事に詩感を置いてゐるのではないかと思ふ。

「東洋人の詩感」

 それでは、「霞立つ」なぞの表現は擬人法であつたのかだうか。『万葉語誌』を開くと、折よくも「立つ」という項があつたので、その冒頭を引く。

潜在的にあったものが、はっきりと人の目に見える形でたち現れてくることを意味する。そのたち現れてくるものは霊的な意味合いを帯びるものであることも多く、人知を超えた世界から人の側の世界へと現れ出てくる意とする説も見られる。『万葉集』で自動詞タツ(タ行四段)の主体となるものは、用例数において「霞」「霧」「雲」といった例が目立ち、人の目には見えない状態から天候や地形の関係で、突如として可視的な白い気象現象が立ち現われることをタツと言ったことを物語っている。

『万葉語誌』、筑摩選書、二〇六頁。

 それから『岩波古語辞典』や『精選版日本国語大辞典』も引いてみた。精選版の次の簡潔な定義が、もっとも基本的な語意として私にはしつくりときた。

物、人などが目立った運動を起こす。

 すべてをまとめると、結局こんなところに落ち着くのではなからうか。

 ところで、私は「立つ」という動詞を考えたときに、頭にもっとも初めにやつてきた用例は、舒明天皇のかの有名な国見歌であつた。一応掲げる。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 のぼりたち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ 秋津島 大和の国は

 『万葉語誌』によれば、さきの語釈からして、「天皇の国見によって国土の全体(国原と海原)が見据えられて、そこにタツ「煙」と「鷗」が幻視されているのだと解すべきである」のださうだが、どうも形而上学的すぎるものではないか。まず第一には、躍動感をもって「煙」や「鷗」が万能照応的に捉えられてゐたのではないかと思ふ。

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「連歌」についても書かうと構想してゐたが、すでにたくさん書いてしまつたので、また後日書くことにする。

 

 

 

 

三日目

 今日も国際法。さっき帰つたところ。

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日本酒の話

 真鯛の刺身を肴に「大七純米生もと」を飲んでゐる。日本酒には少しだけはまつてゐる。「新潟さけの陣」で色んな種類の日本酒をいただいて、興味を持つたといふことがおおきい。せつかく日本酒のイベントにいくのだから、と坂口謹一郎『日本の酒』を予習に読む。坂口によれば、明治期の日本酒は「酸度」が今の数倍高いもので果たして同じ酒と呼んでいいものかだうかといふことだ。すなはち、今でいへば超辛口の部類に属するものが多かつたといふことだ。坂口さんの著書はさすがに面白い。今手元にないのでたしかなことはいへないが(人に貸してしまつた)、鎌倉時代だつたかの文献を覗くと、日本酒が血という比喩でもつて語られることがあるさうである。日本酒といへば、水と同じくほとんど透明か、あるひは少々黄色の混じるものであらうが、そんな常識もはたして確かなものではない。

 今でこそ新潟といへば日本酒の名産であるが、生産量的に見てみれば、新潟と日本酒の繋がりは比較的最近の事柄であるらしい。坂口の著書では論じられてゐないけれども、新潟の日本酒の特徴である「辛口淡麗」は近年(80年代以降)の嗜好といへるものださうな(かの有名な「八海山」なんかは、その際なるものといへるものではなからうか。)。日本酒を分類する指標としては、「辛口←→甘口」と「淡麗←→芳醇」といふ、二つの軸の想定されることが多い。昔の日本酒は「芳醇×辛口」であつたさうである。そんな明治期の日本酒はどこで味わへるのだらうか。知つてゐる人がいたらぜひ教えてほしいと思ふ。

 新潟でいろいろ酒を飲んだが、わたしのもつとも好きなのは「山古志 純米吟醸」であつた。「上善如水」と似てゐるところがあるかもね。すつきりとしてるが、飲むと米のうまさがストレートにやつてくるように感じる。完全受注制らしいし、東京でこれを買ふことはほとんど出来ないだらう。きはめて残念なことである。

 酒は日本文学ではあまり主題化されなかつたといつてもよい。漢詩と和歌における具合を想定して私は言つてゐる。もちろん開高健吉田健一のような人はいるが。だが、江戸にも柏木如亭みたいな人もゐたといふことを思ひ返してもいい。

 

飲は天地間の第一韵事にして、詩家欠くべからざるの政なり。

柏木如亭「詩本草

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アカデミズムについて

 こういつた下らない文章を書いているのにあるひは反感をもつ人もいることだらう。とはいへ私はアカデミズムの或る種の官僚主義にはほとほと閉口している。それから、アカデミズムの村社会にもね(あらかじめ言つておくと、これらが具体的に何を想定しているかについては答へない)。専門性をひたすら深めなければならないという話ももつともだと思ふ。たしかに最近の傾向として、専門的な精緻な議論はたしかに多くあるけれども、普遍性(真理)への追求なんてことは馬鹿馬鹿しい思ひ上がりとしてこれを掲げることはほとんどないのではないか。あるのは、切羽詰まつた状況批評くらいだ(私はこれを批判はしない)。研究者が専門知をたくわえて、その安心の大地の上に自分の「お城」を建設しようとしてゐるのであれば、私はこれに不快感をおぼへる。といふのも、太宰治の次の言葉を私は思ひ出すからである。

 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習ひかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちゐて得たやうな不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄した覚へがある。あの不健康な、と言つていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでゐるものとしたら、それは或ひは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、云々」と言はれても仕方がないのではないかと思はれる。

 勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。

 太宰治「如是我聞」

 

 

二日目

 あひかはらずの酔つぱらひであることをさきにことはつてをく。

 

 今日は彼女と昭和記念公園にてあそんだ。遅くなつたホワイトデーのおかへしとして一首をおくつた(さすがにそれだけではありません)。それはここにしるさない。その理由は第一に拙劣であるからであるが、そもそもさういつたものは公表すべきものでもないと思ふからである。

 

 短歌あるひは和歌をまなぶことはどうも無益のきはみのやうにも思へるけれども、じつのところ、さうでもないのではないか。三十一語の縛りはおのづと人を古語にいざなふ。すなはち自身の用ゐる言語の根つこに就いて、少なくとも見つめるきつかけくらゐにはならう。古語を知るといふことは古い詩情を知るといふこととほとんど同義である。それは私にとつて当然のことのやうに思ふから、本居宣長の歌論を引用して説明するといふ段ははぶくことにする。

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文章を公表するといふことは愚かの証でもあるのかもしれない。私は年々まとまつた文章を提出することに恐怖の感情をおぼへるやうになつた。ひとつの文章として凝固されたものに自身が責任を負ふことを考へると憂鬱の気分しかない。それに、それが本当に書くに値することなのかと疑ひだすととたんに筆が止まるのである。だが、沈黙をもつて済ましてゐるのは、もしかすると文章の公表する愚よりもさらに愚なのではないかとも考へるやうになつた。私はなるたけ自分が愚かではないやうにふるまふことを願ふが、そんなことは究極的には孔子様になるのでもない限り不可能なことだらうから──どんなことをしたつて悪く言ふ人はなにかと因縁をつけて悪く言ふものだからあまり関はらないのが精神衛生的にも得策である──、さつと諦める。これが今の自分の精一杯なのだと観念するしかない。

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 佐藤春夫『退屈読本(上)』は100ページと少し読み進めた。おもしろかつた文章は「東洋人の詩感」、「好き友」、「訳詩集「月下の一群」」、「僕の詩に就いて」あたりか。丸谷才一は序文で何度も『つれづれ草』をひきあひに出してゐるが、その気持ちは分からなくはない。しかし遺憾なるかな。それは、『退屈読本』のなかの或る編は『つれづれ草』のある種の断章と同じくらゐにその「味」がつたはつてこないということも私にとつては含意されるのである。

徒然草』ははじめつから今読んでゐますよ。ちやうど、かの有名な仁和寺の法師の段を読み終はつたあたり。角川ソフィア文庫から出た新版で読んでゐる。角川ソフィア文庫の旧版や、ちくま学芸文庫の『徒然草』と比較検討したわけではないので、それがいいものであると自信をもつて推薦することはできないが、素人目でも注の充実具合くらゐは分かる。