桜/立つ

 めかじきを塩焼きにして、わさびをつけて食べた。「菊姫 山廃仕込み純米酒」を飲む。今日は国際法と時事論文の問題をやつた。

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私の住んでゐる近くの桜も、いよいよ満開といつたふぜいである。日本人は古来より桜を愛でてきたとはいひ条、『万葉集』に於いては桜よりは梅が多く歌はれているさうである。日本人が「桜」を発見したのはむしろ『古今集』以来の事柄に属するはずである(そもそも「日本人」なる概念が明治以降のものなのだから、この言葉遣ひ自体が怪しいものではあるけれども)。それでは、保守の人々の愛するところの桜はどこに由来するのかといへば、本居宣長の桜狂ひ……といふよりは、戦時に本居宣長の次の歌が利用されたことに端を発するのだらう。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 じつさい、この歌から神風特攻隊の「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の名称が採用されたわけである。『古事記』も『万葉集』も『源氏』もごちや混ぜのヘンテコな美学であると思ふ。
 保守陣営が桜をやたら称揚するからといつて、なにも桜それ自体を嫌ふには及ばない。一方では嫋々たる吉野の桜をもつて日本を美化し、他方では薩摩の西郷南洲を持ち出し、かと思へば吉田松陰を出してくるハチヤメチヤ振りなのだから。論理なんてありやしない。折口信夫の次の言葉を私は思ふのである。
定見家や、俗衆のためには、自己讃美あれ。当来の学徒にとつては、正しい歴史的内省がなければならぬと思ふ。
「叙景詩の発生」
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「立つ」
 ところで、桜にあはせて『古今集』と『新古今』の春歌を読んでゐて疑問に思ふ所があつた。すなはち、「立つ」という動詞の万能性である。なんでもかんでも「立つ」のである。「春」も「立つ」し、「霞」も「虹」も「立つ」。堀辰雄を俟つまでもなく、「風」もまた「立つ」わけである。これはいつたいなんだらうか。……とはいへ、かの有名なヴァレリーの「風立ちぬ…」は不思議なことにフランス語のほうでもお誂へに「Le vent se lève」となつてゐて、これは日本語の表現伝統とふしぎに相似してゐるのだよね。そんなところにヴァレリーのこの句が人口に膾炙したゆゑんのひとつもあるのかもしれない。ところでそのヴァレリーはつとに『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』でこんなことを述べてゐる。
幾何学学者なら、形態の研究のなかに時間、速度を導入することができるだろうし、同じようにして、運動の研究からそれらを遠ざけることもできるだろう。そして言語を駆使することで、突堤が延びるs'allonge、山が聳え立つs'élève、彫像が立つse dresse、などという表現が生まれるのである。類推のもたらす眩暈、連続性の論理によって、こうした動作はその傾向の極限つまり停止することの不可能性にまで至る。想像においては、一切のものが段階を追って徐々に動いている。この部屋のなかでは、私がこのような思考だけを持続させているために、さまざまな物体がランプの炎のように揺れ動いているagissent

 ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』塚本昌則訳、ちくま学芸文庫、三七-八頁(Paul Valéry , Oeuvres, tome 1, Gallimard, 1957, p. 1169-70)

 

ヴァレリーにとつて、「風立ちぬ」という表現は「一切のものが段階を追って徐々に動く」さまを捉えるための表現のうちの一つであつたのだらう。ヴァレリーはヴァレリーで西洋に於いてもまたちよつと特殊な詩法をもつてゐた人ではあるが、この例のなかで「徐々に動くさま」がだうしても擬人的になつてしまふきらひはあるかもしれない。佐藤春夫は次のように言つてゐる。

いつたい西洋の詩人は、自然を見るにも常に擬人的にしか見られないし、見ることをしない。

「東洋人の詩感」

ヴァレリーが必ずしもさうだとは言はないが、すぐに西洋人はニンフやらをだしてくるね。さきほど出た動詞たちもそもそもは人間たちに用ゐられるべきものではなかつたか。それでは、東洋人はだうだといふのか。つづけて、佐藤は言ふ。

成程花を見て無常を感ずるといふやうな哲学的な見方も、多分にあるにはあるが、われわれの批評から見てさういふのには、かへつて傑作は乏しく、自然現象のまま歌つたのになかなかいいのがあるかと思ふ。たとへば

  わだつみの豊旗雲に入日さし

  今宵の月夜あきらけくこそ

 といふなぞは、何の主観も哲学もなしに、然し立派に詩になつてゐると思ふ。支那の詩にしても王維や韋応物なぞの詩を初めとし純粋なる自然詩にその傑作が随分があると思ふ。(例は思ひつかないから、又今度にする)特別な人ばかりぢやない、どの詩人にでも相当にある。否むしろわれわれ東洋人が風流といふのは、人間そのものを自然物のやうに、自然の一断片として感ずる事に詩感を置いてゐるのではないかと思ふ。

「東洋人の詩感」

 それでは、「霞立つ」なぞの表現は擬人法であつたのかだうか。『万葉語誌』を開くと、折よくも「立つ」という項があつたので、その冒頭を引く。

潜在的にあったものが、はっきりと人の目に見える形でたち現れてくることを意味する。そのたち現れてくるものは霊的な意味合いを帯びるものであることも多く、人知を超えた世界から人の側の世界へと現れ出てくる意とする説も見られる。『万葉集』で自動詞タツ(タ行四段)の主体となるものは、用例数において「霞」「霧」「雲」といった例が目立ち、人の目には見えない状態から天候や地形の関係で、突如として可視的な白い気象現象が立ち現われることをタツと言ったことを物語っている。

『万葉語誌』、筑摩選書、二〇六頁。

 それから『岩波古語辞典』や『精選版日本国語大辞典』も引いてみた。精選版の次の簡潔な定義が、もっとも基本的な語意として私にはしつくりときた。

物、人などが目立った運動を起こす。

 すべてをまとめると、結局こんなところに落ち着くのではなからうか。

 ところで、私は「立つ」という動詞を考えたときに、頭にもっとも初めにやつてきた用例は、舒明天皇のかの有名な国見歌であつた。一応掲げる。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 のぼりたち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ 秋津島 大和の国は

 『万葉語誌』によれば、さきの語釈からして、「天皇の国見によって国土の全体(国原と海原)が見据えられて、そこにタツ「煙」と「鷗」が幻視されているのだと解すべきである」のださうだが、どうも形而上学的すぎるものではないか。まず第一には、躍動感をもって「煙」や「鷗」が万能照応的に捉えられてゐたのではないかと思ふ。

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「連歌」についても書かうと構想してゐたが、すでにたくさん書いてしまつたので、また後日書くことにする。